日向市キャリア教育支援センター ブログ

私の生きる道

2025.12.26

とにかく

 1214日(日)の夕方、孫を連れて日向市駅前広場にやってきました。前日のイルミネーション点灯式は雨でしたので、翌日を狙った次第です。ところが点灯はまだで残念でしたが、孫は道路沿いの樹木に巻き付けてあるLEDの灯りに満足した様子でした。今週月曜の夕方、保育園の帰りにもう一度やってきました。またこの日も時間が早かったかと諦めようとしたらすぐに点灯しました。アーチ状になった光のトンネルやキューブ型の秘密基地のような白色LEDのボックスなど、楽しめる灯りの公園に時間を忘れて孫と戯れました。あと少し増えるともっと人も集まるかなと来年以降に期待します。

 

 さて、それはともかく、本日のテーマは「とにかく」のお話です。私の失敗談になります。以前、冬のアラスカを訪れたことはお話しました。その後、3泊目の宿であるゲストハウスのオーナーとメールでやりとりする機会があり、その時のお話になります。

 アメリカ人のオーナーにメールを送る際には英語になります。私は英語は得意ではないので、アプリの翻訳機能を使用しています。ゲストハウスは奥さんの方がオーナーになっていて、その方のFacebookにとても良い内容のコメントが書かれていたのでお世話になった当時を思い出し、彼女に「とにかくあなたたちは親切にしてくれて嬉しかった。」というような内容を書いて翻訳し、そのまま送ってしまいました。通常は、翻訳したあとに一度自分で読んでみてふさわしい表現かどうかを吟味し、良ければメールで送るようにしています。自分で英語表現の正誤を確認するほど英語はできないので、辞書を片手に文脈が相手に伝わるかをよく考えるようにしています。日本語の微妙な言い回しは翻訳機能では十分に訳してくれず、それをストレートに書いてしまうと誤解を招く恐れがあります。

 

「とにかく」は「Anyway」に翻訳されます。「とにかく」は「他のことは後回しにして」というのが日本語の第一の意味なります。英語ではAnywayがそれに当たるようです。私は「『なにしろ』あなたたちは親切にしてくれた」ということが言いたくて強調する意味で使ったのでした。確かに、「とにかく」には、理由や状況を強調する意味が含まれますが、それは第二義的な意味合いになり、「あなたはとにかく優しい人です。」のような使い方をします。その場合にも、会話の中で強調する場合に使用することになるので、いくら相手を褒めたたえるつもりでも、いきなり「とにかく」を使ってはまずかったなと思いました。

 

オーナーが書き込んだFacebookの記事に対して、当時を思い出し感謝の気持ちを伝えたのですが、案の定、彼女からの返信に「あなたがここで何を言ったのかは分からないけど、ウチに来てくれてとても有意義な日々を過ごすことができ、こちらもとても楽しかったわ。」と言ってくれました。この「何を言ったのかは分からないけど」という部分が、まさに、「とにかく=Anyway」の第一義に当たる「何はともあれ」を指していることになります。私は「あたたたちは親切だった」ということしか書いていないのですが、「Anyway」があったために、前に何かを言ったことになっているのです。言い訳ですが、その時は、あちこちに英語のメールで連絡を取りバタバタとしていて、とてもお世話になったオーナーに対して感謝の気持ちを強調して伝えようとし、最上級のつもりで「とにかく」と書き出してしまい、翻訳後に確認をせず送ってしまったのです。この表現は、英語と日本語の使い方の差異というより、私の使用法は日本語でも十分な間違いであるということです。

 

 ここで改めて「とにかく」について調べてみました。意味としては上記のように、「他のことは後回しにして」とか「何はともあれ」が通常の意味で、「いずれにしても」「なにしろ」という強調する意味もあります。後者の場合、「このごろ、とにかく忙しいよ。」という使い方もあり、前の文脈に必ずしも依存しない使い方もできます。それでも、それまでも会話があってこその「とにかく」が妥当な使い方になるので、文脈の中で適切に使用することが大切だと改めて認識しました。

 漢字で書く「兎に角」は、兎には角(つの)がないことから「ありえないもの」を指す仏教用語「亀毛兎角(きもうとかく)」の漢字を当てたものだそうです。もともとは「あれやこれや」を意味する「とにかくに」が変化して「兎に角」と書かれるようになったという説があるそうです。亀にも毛はないのですが、よく見る亀の尻尾の長い毛は絵や飾りとして想像上で描かれているものです。

 

 いずれにしても、まずは日本語を正しく表現し、使い方を間違わないように心掛けなければならないと反省したところでした。「とにかく」と聞けば「明るい安村さん」が出てくるかもしれませんし、古語に興味のある方なら『土佐日記』の結びにある「とまれかうまれ、…」を思い浮かべる方がおられるかもしれません。この言葉一つにも使い方を考える必要が十分にあると分かります。私はブログを書いている以上、言葉の使い方に注意しなければならない立場です。人間の伝達手段として最も相応しいのが対面で話すこと、次に電話、そして手紙と続きます。メールSNS、ライン等)は最も伝わりにくい伝達手段であることを肝に銘じて書いていかなければならないと心しておきます。本年の締めくくりに相応しい内容ではありませんでしたが、我が身を振り返るという意味の話は伝わったでしょうか。英語の使い方につきましては、得意な方や英語の先生が教えていただくと有難いです。お付き合い有難うございました。

 

 

キャリア教育支援センターでの私の務めとしては三カ月ではありましたが、本年も日向市の各事業所の皆様には小中学生を中心としたキャリア教育の推進にご理解とご協力をいただきまして、本当にありがとうございました。事業所の皆様のご理解なくしては、中学生のよのなか挑戦は実現しません。また、子どもたちが将来に希望を持ち、夢を思い描くことを有意義にするために、よのなか教室が有効に実施されなければキャリア教育の推進は不可能です。さらに、各小中学校におきましては、校長先生のご理解のもと、教務主任やキャリア教育担当の先生方が推進リーダーとなっていただき、各学年で計画的によのなか教室を実施していただきまして、本当にありがとうございました。学校は締めの3学期へ向かいます。短い3学期ではありますが、午年のごとくエネルギッシュな一年になりますことをご祈念し、来年もキャリア教育の推進へ向けてご理解とご協力をよろしくお願いいたします。

どうぞ良いお年をお迎えください。

 

日向市キャリア教育支援センター一同

 

 

*昨年、日向市駅前で撮ったイルミネーションです

  

  

 

2025.12.24

名君の影響

藩校の話になります。江戸時代の初期、岡山藩主の池田光政が設立した日本初の「庶民のための学校」閑谷学校は有名ですが、わが宮崎県にも日南や都城、延岡などに藩校は設立されています。その中でも高鍋藩明倫堂は、藩士の子のみならず庶民や農民にも学問は必要だと、第7第藩主秋月種茂公の考えが反映され開かれました。種茂公が名君であったことは有名ですし、その弟で山形の米沢藩第9代藩主となったのが上杉鷹山であることはご存じの通りです。「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」が上杉鷹山の言葉ですね。また、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが「日本でいちばん尊敬する人物」としてすぐに鷹山の名前を挙げた逸話もご周知のとおりです。

 

私は山形県米沢市を3年前に訪れました。上杉鷹山の米沢藩はどういう所なのか、今も鷹山公の業績は息づいているのか、そういうことを自分の目で見てみたかったのです。事前情報があまりない中で米沢市に向かいました。私は車で移動していたので、まずは道の駅に向かいます。そこのインフォメーションで土地の情報を仕入れることにしました。案内係の方に土地情報を聞いた後、「上杉鷹山は宮崎から来た人だと知っていますか。」と質問してみました。すると、「はい、高鍋の方ですよね。学校で習いました。」との即答に、私は感動するやら余りの浸透ぶりに驚きました。次に、入手した情報をもとに、まずは上杉神社へ行きました。4月の米沢市は春まだ浅く、駐車場の周辺にはうず高くが積み上げられていました。

上杉神社は、米沢城跡に上杉謙信と上杉鷹山を祭神として作られました。正確には、明治の失火により再建された時に上杉鷹山については、境内の松岬神社に分祀されています。正面から一直線に伸びる境内への参道では、背筋をピンと伸ばしてくれるような神聖な空気を感じました。至る所に上杉家の歴史を語る掲示板があり一つ一つ読み入りました。

上杉神社HPより

続いて、神社のすぐ近くにある米沢市上杉博物館に向かいました。私は観光に訪れると必ずこういう歴史資料館や博物館を訪れます。知らないことだらけで自分の中に新たな知的細胞が誕生するようなそんな感覚が好きです。この博物館は名前のように上杉家がこの米沢の地をどのように反映させたかを知るには十分な資料の展示がなされていました。もちろん、上杉鷹山については深く学ぶことができます。鷹山は幼い頃に母親を亡くし、育ての親が祖母でした。その祖母は米沢藩から秋月家へ嫁入りしていました。秋月家の次男である鷹山は祖母から才覚を見いだされていたので、祖母が養子縁組を米沢藩に取り持ったということになるそうです。当時の米沢藩は極度の財政難に陥り、加えて災害や大飢饉などにより民衆は困窮を極めていました。鷹山は財政改革に乗り出し、自らも粥を食べて倹約しました。これらの業績などを示す展示物に見入りすぎて2時間も博物館に滞在したので、外の明るさに目がくらんでしまいました。

 

さて、米沢見物の話は置きまして高鍋藩の話です。名君秋月種茂や上杉鷹山はご存じでしょうが、高鍋藩が江戸時代に軍馬・農耕馬生産のため、宮崎県串間市の都井岬に馬の飼育を手掛けたということはいかがでしょうか。これも高鍋藩による一つの先見の明ということではないかと思います。現在、半野生化して国の天然記念物に指定されています。

秋月種茂公が高鍋藩主になる以前には、東郷町で悪政に耐えかねた村民が村から脱出する逃散一揆がありました。その際、千名以上の村人が山を越え逃げ及んだのが現在の都農東小学校の西側付近で、高鍋藩の管轄になります。高鍋藩は山陰村民をすぐに追い払うことはせず一月以上保護し、延岡藩と折衝をして、最終的には幕府により村民側に立った采配となりました。その結果、山陰村や坪谷村などは幕府の直轄領すなわち天領となった訳です。その後も山陰村民は高鍋藩に対して恩義を忘れなかったそうです。現在の本町幸福神社内に富高陣屋跡の碑があり、細島に出張陣屋が置かれていたのは天領となった影響によるものです。今の都農町は日向市の隣であり、東郷町は日向市となっているので、史実から読み取れる民衆の闘い名君の英断からは、この日向市一帯に流れる人々の熱い思いを感じ取ることができます。

時は種茂公から200年ほど経った江戸末期、維新に揺れる京都寺田屋事件の後、勤王の志士は徹底弾圧されました。その中で、鹿児島へ護送中に日向灘沖で惨殺された3人のうちの一人が海賀宮門(かいがくもん)という秋月藩士で、この3人の遺体が流れ着いたのが「黒田の家臣」という現地では古島(こしま)と呼ばれている場所です。潮の干満で砂洲を歩けるようになる景勝地なのでご存じの方は多いでしょう。この時の遺体を手厚く葬ったのが黒木庄八という細島の方で、この方のお孫さんにあたる黒木ひでさんは、長年伝承者としてご活躍されていました。ご高齢になられた頃に私は細島小にいまして、何回かひでさんに面会し、お話を聞かせていただいたことがあります。

名君秋月種茂公の秋月藩の意志は、高鍋から時代を経て回り回って日向の地へ関係を繋ぐという人の巡りあわせをも感じさせてくれます。それほどの名君であったからこそ、多くの人そして数々の地に影響を与えているということなのだと理解できます。

 

私の仕事が日向から始まったのにも何かの縁があったのでしょう。長く勤めてきた県北への思い入れには並々ならぬものを持ってきたつもりです。歴史的な意味では神武天皇お船出という時代に始まり、上記のような数々の名君や民衆の思いを背負いながら刻んだ歴史を持つこの日向という町に魅力を感じます。私には名君の英知のかけらもありませんが、市内事業所の皆様のお力とスタッフの知力を借りながら、キャリア教育が、一人一人の本人らしい生き方の実現へ向けて良い影響を与えられるように日向市の児童生徒の支援を行っていきたいと改めて思うところです。

2025.12.18

子どもの特性を理解し環境を整える

  

    子を残し先に逝く。どんな思いでしょうか。亡くなる前は胸を引き裂かれる思いばかりではないかと苦しくなります。

  雑誌に、特定非営利法人福祉広場理事長 池添素(いけぞえ もと)氏の話がありましたので紹介します。

   保育について勉強していく中で、保育実習で訪れたある知的障害者施設に、奇しくも父と同じ名前の男の子がいました。男の子は、石でも釘でも地面に落ちているものを何でも拾って食べてしまいます。汚いからだめと伝えても、全くやめてくれません。この時、自分の無力さを痛感すると共に「なぜそんなことをするのかを知りたい。理由を知って何とかしてあげたい!」という思いが沸き上がってきたのでした。なぜそんなことを-?この問いが私の活動の原点であり、いまも子どもの立場になってなぜ?を問う姿勢は一貫しています。(略)

 もう一人、いまも忘れられない子がいます。その子は母子家庭で育ち、お母さんはすごく仕事のできるキャリアウーマンだったのですが、保育園に通い始めた頃から自己主張が強くなり、友達とのトラブルが絶えませんでした。その後、小学一年生から不登校になったのですが、私は「あの子がやることは何でも認めてあげてください」とお母さんにアドバイスしました。(略)その子は海外のオンラインゲームに興味を持つようになり、それを通じて世界中に友達ができ、英語ができるようになったのです。(略)お母さんはわが子に寄り添うために一時仕事を辞め、専業主婦(専業母)になりました。経済的には苦しい状況でしたが、それからその子の状態もだんだん落ち着き、中学生の年齢になる頃、「お母さん、働いていいよ」と言えるまでになりました。ところが、働きに出るようになった矢先に、お母さんにがんが見つかり、闘病の末、四十代の若さで亡くなってしまったのです。

(略)彼は通信制高校で一所懸命に勉強しています。(略)彼がいま前を向いて歩んでいっているのも、きっとお母さんが彼のことを最後まで諦めず信じ続け受け止めた結果だと思います。

  子どもの特性を客観的にしっかりと見極め、「自分で決めさせる」「ひたすら待つ」この二つが大事だと言われますが簡単なことではありません。ここには絶対的な覚悟が必要になります。昨夜テレビで、初めて犬を育てるという番組がありました。犬を育てることで子どもが成長するということが紹介されていました。ペットもその家で一生を終えることになるので家族同然です。生あるものと接するという覚悟が必要になります。覚悟を決めて子どもを育てることは、自分の子どもに責任をもつことになります。子どものペースで継続できる環境を整えながら共に歩む道のりは長いようで短いです。

  「子育ては18歳まで」 これは私が懇談時に保護者によく話した言葉です。18歳を過ぎると、就職や進学で親元を離れる場合が多くなります。もちろん親子の関係は一生続くのですが、直接面倒をみる機会は、18歳を境に激減します。20年ほど前、高校総体が終わった(県大会で敗北)6月に行われる保護者と監督(先生)の慰労会では、飲み会の賑わいはなく沈んでいました。私が近くの保護者に「どうしたんですか?」と聞くと、「もうこれで子どもの応援ができない。」と暗く悲しい表情で答えられていたことが今でも忘れられません。ですから、6年生の保護者に「あと6年で巣立ちますよ。今は少年団や習い事の送迎などで忙しいという思いが先行しているかもしれませんが、6年なんてすぐに来ます。一日一日を大切に、今を頑張りましょう。」と伝えていました。

  親が子どもにできることは、子どものことをよく理解し環境を整えることです。それは親にしかできない価値でもあります。

  必要以上に傍にいて守らなければならない子どもを残して先に逝ったお母さんは、さぞ無念だったことでしょう。この時、母と対面し泣き崩れた少年がその後、前を向いて歩いていく姿をお母さんはどこかで見ていたでしょうか。

  親は、わが子に自分らしい生き方をして欲しいと願うものだと思います。共にがんばりましょう。

親が落としたブドウの種から実ったぶどうの実を子が食べた時、親を思うのでしょうか。

「きつねとぶどう」 生成AIで作成

2025.12.17

決断力

  皆さん、遭難したことはありますか? 私はありませんが、遭難しかかったことはあります。

 昔から冬山に通っていました。北アルプスへ毎年、年末年始の休暇を利用して遠征をしていました。仲間との休みの調整がつくのが年末年始だけだったという理由からで、よく職場の人から「御来光を見に行くのですか?」と言われ、違いますというのも理由を説明するのが面倒で、「はあ。」と気の抜けた答えをしていました。その冬山遠征も歳と共に形を変え、山スキーへと変化して行きました。新田次郎の『孤高の人』のモデルである加藤文太郎は明治から昭和にかけての登山家ですが、当時すでにスキーを履いて山を登下行していたのですから、先達は尊敬します。

 山をスキーで登下行するとはどういうことか。スキーはお分かりでしょうが、スキー板の裏に先端から末端まで毛皮を貼るのです。昔はアザラシの毛をスキー板の幅に加工して長く貼り付けたのでシールseal(アザラシ)と呼んでいます。貼り付ける面の向きで毛が逆立っているので、雪面にしっかりと食いつく訳です。それで、スキー板にシールを貼ると、上りは雪に足が埋没せず(深い時は腰まで潜る)、歩くよりは早く登ることができるのです。現在は化繊のものが主流になり、手入れも乾かすのみで随分楽になっています。スキーで滑る時には、そのままでも、今度は毛が下向きで邪魔しないので滑ることはできますが、さすがに抵抗が大きくスピードは出ません。それで、快適に滑る時には、シールを剥がして下ることになります。

 さて、前置きが長くなりましたが、5年ほど前に、単独で厳冬期の北アルプス「白馬乗鞍岳」へ向かった時のことです。1日目にスキー場のトップからシールを付けて登り始めました。ここは何回か訪れたことがある場所なので、天気が良ければ道に迷う心配はないという自信がある山です。順調に標高を上げて樹林帯をかいくぐって進みました。そろそろ森林限界が来た場所で、樹木の背丈が私より低くなってきます。同時に、それまで樹林帯が風よけになっていたので、抜けると強風がまともに当たり始めました。それでもまだ、山頂まではあと三分の一はあります。そのまま進むとさらに風が強くなってきたので、今日はここら辺りで無理せず引き返そうと判断しました。

 シールを剥いで、来た道に沿って滑り始めました。尾根道でシラビソの樹林もあり、それを避けながらのスキーになるので結構アドベンチャーです。あと500mほど下ると目印になる成城大学の避難小屋に出ると、現在の位置から考えて分かっていました。その小屋から下るとすぐに橋があるのです。つまり沢になっているところがあり、そこへ滑り下りて、大きな林道を、登山者が歩いて掘れた道を使って、まるでボブスレーのように自動運転でスキー場のトップまで戻るということになります。もちろん沢は、冬で雪が多く埋まっているはずです。そういう状況がイメージできたので、成城大学の小屋へわざわざ進まず、現在の尾根の位置から左側つまり沢側の斜面をトラバース(横切る)して橋に直接出た方が近いと判断しました。スーッと斜め直線的に尾根の左下斜面を滑るだけで、5分もすれば橋に出る計算でした。

 トラバースを決断しました。左斜面に入り込み、滑り始めた瞬間、そこら一帯の斜面の雪が一斉に崩れてドドドーッと落ちていきました。もちろん私も流されて落ちました。が、5mほど落ちたところで、スキーを履いた足が木の根っこに引っかかって止まりました。雪のはがれた斜面は、シラビソの樹の絡まった根っこが縦横無尽に走り、それがあらわになってむき出しになっていました。つまりその斜面一帯の雪は、絡まった根っこの上にかぶさっていただけだったのです。私は、その入り組んだ根っこに足が引っかかって止まったということでした。10mほど下を見ると、雪で埋まっているはずのが、所々口をぱっくりと開けていて、水が流れているのが分かりました。暖冬の影響で、その年はあまり雪が積もっていなかったことになります。水深はそこまで深そうには見えなかったのですが、落ちれば間違いなく1分で低体温症になることは間違いありません。そう考えると、ゾーッとしました。

 さあ、ここから脱出しなければなりません。私は、このアンバランスな状態から滑り落ちないように体勢を整えました。次に、片方の手で体が落ちないようにしながら、もう片方の手で緊急用にザックに付けていた細引きのロープカラビナで木の根っこに自分を繋いで自己確保しました。これでまず落ちる心配はありません。その後、別の細引きロープをスキー板のビンディング(スキー靴を固定する器具)に取り付け、これから尾根に這い上がる際に板を落とさないように体に固定しました。次はいよいよ脱出です。50度はあるかという斜面を木の根っこにつかまりながら上がりました。2mほど上がると、今度は雪面になっています。角度は40度ほどに落ちましたが、掴まるところはありません。それで、手を雪面に深く突っ込んでずり落ちないように力を込めて一歩ずつ上がっていきました。それを繰り返していると、角度が完全に落ちてきて尾根上に這い上がることができました。

 疲れ果て極度の緊張感から解放されて、尾根上にへなへなと倒れ込みました。ポットのぬるい温水を飲み、行動食を少し食べて休憩すると元気を取り戻しました。もう少し雪面の状況をしっかり分析、考察して、微妙な変化としてのインシデントを見逃さない観察力が必要だと、深く反省しました。後は、尾根道に忠実に滑って無事下山しました。

 ところがこれには続きがあります。翌日、また同じルートで、今度こそ山頂までと登ったのですが、中間の台地まで来ると、吹雪に見舞われ下ることにし、昨日の教訓から、「左でなく右、右。」ともう一人の自分が言い聞かせているのです。それに素直に従ったら、今度はまったく違う尾根を下っていることに途中で気が付きました。GPSで確認すると一本尾根が違うのです。しかしもう後の祭りです。そこは急斜面でスキーを履いていても膝上まで潜る雪の深さです。もしここで転倒でもしたら、埋没して雪の中から這い上がることは不可能だったでしょう。ましてや転倒でスキーが外れてしまうと、体は頭まで潜ってしまうくらいのサラサラの雪でとても深かったです。

 もう下るしかないと判断しました。というのも、ここを無事クリアし下ると、自然園というとても広い平原(雪原)に出ることが分かっていたからです。ただ、現在地から下は崖のある場所が地形図では読み取れるのでルートは慎重に選ばないといけません。樹林帯の中ですが、木の隙間から吹き込む雪と多少の湿度があるのか、一帯はホワイトアウト化してきました。こうなるともうGPSだのみになります。少し下っては止まって現在地と進行方向をGPSで確認します。それを繰り返して、結果的に自然園の広い雪原に降りることができました。そこもホワイトアウトで10m先が見えない状態です。雪面と空の境界が分からないので気を付けないと酔ってしまいます。慎重に進んで、やっと山荘のある一帯に出て休憩しました。その後林道を進んで無事に帰還することができました。

 2日連続で遭難しかかるなんて本当に情けないと心から反省しました。そして、分岐点となる現場での「決断」がこういう災難に遭遇したのだと、改めて、慎重かつ客観的・科学的に状況を判断し、最後に決断するという一連の過程は、その後の登山のみならず、私の大きな教訓となっています。日本のアウトドアメーカーの創業者辰野勇氏は「決断とは将来を見据えて、今あえて困難な道を選ぶこと」と言っています。この方の経歴たるや凄まじいものがあるので、氏の言葉は重いものだと思われます。挑戦することに関してそう述べられているのだと解釈します。また、『経営と冒険』というタイトルの著書の中での言葉なので、経営者としての観点での話であると理解できます。私の遭難もどきの話に関しては、「困難な道」を選ばないことが「決断」だったのかもしれない、いや逆に、楽をしない方が「困難」であり、その時の通常の「尾根道」がそれに当たるのかもしれないと反省したところです。

 氏が、経営する際に必要と言われる「集中力、持続力、判断力、そして決断力」という一連の思考活動が経験則から身についていることが求められるのでしょう。自然を相手の遊びの際にも、仕事として突き進む際にも、判断力と決断力は、その前の状況分析の上に成り立ち、そして一歩を踏み出す勇気が求められるのだと多角的に考えるこの頃です。

 キャリア教育とどう繋がる話になるのか、あまり考えずに冬山の経験談を書きました。お付き合いありがとうございました。

2025.12.16

自分事

 
  皆さんのところではインフルエンザは迫ってきていますか?もう通り過ぎましたか?市内では猛威をふるっているインフルエンザに戦々恐々とする毎日かもしれません。大学、高校の受験生のいるご家庭では心配なことでしょう。基本的な予防をするしかありませんので、くれぐれもお気を付けください。

 さて本日は、物事を自分事として捉えることについて、朝日新聞eduAという記事がありましたのでお知らせしたいと思います。

福島県・茨城県中学生28人がウォルト・ディズニー・ジャパン社員のアドバイスを受けながらキャラクターや物語を制作するワークショップ8月、東京都内で開かれました。福島県いわき市のチームは、高校受験を控え、サッカー強豪校に進学するか悩む、中学3年生の思いを描く物語を考案。過去のケガや失敗から本当の思いを両親に打ち明けられない主人公を応援するキャラクターとして、クマの妖精「ムタティオ」を生み出した。キャラクターのイラストには生成AIを活用し、スライドや音楽を織り交ぜたプレゼンテーションを使って、自分たちで考えた物語を発表した。同中学3年生は「社員の方から『自分事に置き換えて考えてみて』というアドバイスを受けて、説得力をもった作品に仕上げられた。0から1を生み出すことは難しかったけれど、その経験を将来に生かしたい」と話した。

この記事を紹介したことには理由があります。最後の「自分事に置き換えて考える」という部分は、日向市のキャリア教育で活用する視点と同じだからです。よのなか教室(職業講話)やよのなか挑戦(職場体験学習)には共通する事前学習の視点があります。それは、職場環境の中で他者をどう理解し自分が社会の中に活躍の場を見いだすかという「相手を尊重し社会を理解する力」や、自己を正しく理解し自己管理を行っていく自分を正しく知りコントロールする力」、さらに、自分が克服しなければならない課題にどのように対応していくかという「課題を見極め解決の工夫をする力」、そして、これからのキャリアをどう発展させていくのかという「働く意義を知り将来を切り拓く力」。この4つの力を講話や体験で学び取るように事前指導を行います。

 その講話や体験が終了した時、児童生徒は果たして自分が4つの力を獲得できたのか把握しにくい場合がでてくるので、自分が納得できるように置き換えて考える必要があります。それが「自分の身に置き換えて」という視点になります。それは、「相手をどのように尊重すればよいかや自分は周囲との関りができているか」や、「自分の役割をよく理解することや自分をコントロールするために必要なことは何か」、さらに「現在の自分の課題が分かり、実行していくために必要な工夫」、そして「働く意義とは何か、道を切り拓いて将来を設計するために必要なことは何か」。こうやって4つの視点を「自分事として置き換えて考えてみる」ことで、自分の中にこれから頑張っていくことは何かという「軸」が出来上がると期待しています。

 学校では、教育課程の中に成長のために必要な体験プログラムを様々な行事・学習という形で組み込んでいます。それを面倒くさい行事としか捉えられなければ成長は期待できないでしょう。目の前にある課題(体験活動)を自分事として捉えて成長につながる収穫を得てくる。そういう前向きな捉え方を主体的な活動と呼びます。

 人生は長いようで短い。それを分かっている大人であれば、なお更、子どもたちには充実した人生を送らせたいものです。そう語ってみたところで、今もがき苦しむ流れの中にある子どもたちは、長い旅の途上の真っただ中にいます。私は早く成長してもらいたいと焦るあまり、子どもに大人の価値観を押し付けたように思います。大人の尺度で大人の価値観を振り回したところで、先のことなんて分からない今を生きる子どもたちには響かないことが多いと後になって分かってきました。人生の先輩として子どもに話すことは沢山あるでしょう。大事なことは、その話の内容を子どもが自分事に置き換えて考えてみる時間を作ることだと今は言えます。難しく言えば「内省化」の時間を作ることが大切です。平たく言えば、「どんな意味か考えてみない?」と子どもが振り返る時間を置くことです。そして、数時間あるいは一晩おいて聞いてみることです。「どんげ思った?」と。話しても言うことを聞かない。家のことを手伝わない。これらは、しっかりと本人が自分事として受け止める時間や空間を作っていないことが原因かもしれません。反抗期とよく言いますが、まったく反抗期のない子どもも実際にいます。残念ながら反抗期だと自分で認めている子どもも多くいます。後者の場合、大人が分かりやすく話した内容はほぼ理解しています。自分で反抗期だと認めている以上、受け入れる態度がとれないのです。大人は「子どもは分かってはいるんだ。」と自分を納得させるしかありません。それでも、これからも話を続け、「自分事」として受け止められるような伝え方を心がけていきたいものです。

 まずは、そういう私たち自身が、職場や周囲の人の言うことを自分事として受け止め、考えられる人間であることが、子どもへのアプローチとしては遠くて近い道なのかもしれません。自戒の念を込めて…。

2025.12.15

地域で育てる~FTF(face to face)

 昨日は前夜からの雨が止み、からりと晴れ渡った心地よい空気の中で青島太平洋マラソンが開催されました。ランナーの皆さんお疲れさまでした。また、サッカーではテゲバジャーロ宮崎がアウェイで完勝し見事にJ2昇格を決めました。こちらも大変おめでたいことで、昨日はスポーツに湧いた宮崎となりました。

 

 さて、先週金曜日に日向市の各地域で尽力されている地域コーディネーターの皆さんが一堂に会して本年の取組について協議する会が実施されました。日向市には中学校区を一つの単位として各地区に地域コーディネーターの方々が、それぞれの校区の学校からの要請に応じて人材や事業所を見つけ調整する役を担っておられます。うちのスタッフの一人もコーディネーターを兼務しております。今回は私も地域で子どもを育てる意味合いから参加させていただきました。初めての方もおられましたが、こうやって対面でお話するのはとても良い機会になりました。

 初めに、三樹教育長からは「学校だけで子どもを育てる時代は終わっています。地域一丸となって子どもを育て、また学校も柔軟な教育課程を編成して地域の人材をフルに活用できるようにしていくことが大切です。」とご挨拶をいただきました。

 次に、意見交換の場では各地区から様々な活動が報告されました。「参観の日の懇談時に低学年生の見守りを行っている」「授業補助の必要性から機転を利かして地域との調整をしている」「小中学校のクラスで読み聞かせをしている」「祭りの舞を長年指導している」「ミシン補助をしている」「学有林の活用を掘り起こしからしている」「面接指導に協力している」「よのなか挑戦ではコロナ禍で途絶えていた事業所が喜んで迎えてもらった」など、調整に奔走しておられる様子が見えてきました。

 また、課題として、「中学校区が一つのまとまりであっても小学校区ごとに特色があり、すべて一つにまとまるということの難しさもあるが、何とか皆で地域の子どもたちを育てる意識にもっていきたい」「地域の行事が減少し子どもたちが地域で育つ機会に乏しくなっている」「奉仕作業は学校をきれいにするというより皆で集まって話をし、顔を知るという機会として実施できればよい」「育成会やPTAに不参加の家庭が増えていることが子どもたちへ影響しているのではないかと思われる場面に遭遇することがある」などの切実な状況をお話しいただきました。

学校も行政も保護者も地域も、すべて目指すところは同じで、「子どもの健やかな成長」これ以外の何物でもないはずです。成長に伴い、学力、体力、人間力などが付加されていき、最終的には「人格の完成」を目指すのが教育の役割になります。この場合の教育は、学校だけで行うのではなく、家庭、地域すべてが関わりあって育てていかなければなりません。地域コーディネーターの皆さんは直接学校に寄り添って支援をしていただき、キャリア教育支援センターは地域でカバーできない市内全域での学習活動の支援・サポートを行います。学校はどちらに相談して良いか判断に迷うときは、どちらでも構いません。まずは地域の人材を活用しようと積極的に行動を起こし連絡をいただきたいと思います。地域コーディネーター、キャリア教育支援センター双方で連絡しあい、どちらが関わるのがより適切かを判断して返事をすることができますのでお気軽にご相談ください。地域コーディネーターとキャリア教育支援センター、そして教育委員会は連携しながら子どもたちの健やかな成長を願って歩んで参りたいと思います。地域の皆様、保護者の皆様、事業所の皆様、どうぞご理解とご協力をお願いしたいと思います。


 冒頭で紹介しました青島太平洋マラソンは、視覚障害者マラソン大会が同時開催されています。私も以前は「アオタイ」のランナーとして参加しておりましたが、現在は伴走者として参加しています。今年は10kmの部で東京からの若い選手と共に無事ゴールしましたが、そのすぐ後には一般フルマラソンの選手がもう帰ってきました。1位は2時間20分です。何という超人的な速さです。その後惜しくも2位だったのが門川出身で東京都在住の男性です。以前はこの大会で優勝もしていて、学生時代は箱根駅伝にも出場した努力の人です。数十年ぶりに会い話をしました。彼に写真を送ると、早速自身のFacebookで「地方大会の良さ」を語ってくれていました。人と人がFTFface to faceで話をすることで温かな空気感に変わることはよくあることです。昨日も彼の「時の移ろいを感じますね」という言葉からは、時間の経つ早さと思い出の甦りを懐かしく感じましたが、数々の試練を乗り越えてきた彼の人生を思い浮かべてもいました。人が暮らすその場、その地域FTFと顔を付き合わせて暮らしていけるのは、どんなAIにも負けない人間ならではの価値ではないかと思います。先週の研修協議会そしてマラソン大会と、濃い週末でしたが、それぞれの人がそれぞれの地域で生きていくことの大切さを改めて感じました。長い旅の途上である子どもたちを今いる地域で育てるのは先生である大人の役割だと身を引き締めた週明けの朝でした。

2025.12.10

世は情け、お互い様

 本日は、厳冬期のアラスカ路線バスに乗った日の出来事にお付き合いください。当時の記録(日記)から転用します。

 フェアバンクスの空港からゲストハウスに帰る際に路線バスに乗ってみた。親切な運転手に降車場所から次のバスに乗り継ぐ道順を教えてもらい、なんとかバスを乗り継いだ。そのバスが発車し暫く進むと、次のバス停で私より少し若そうな夫婦なのか男女2名が乗り込んできた。何やら、乗り込んですぐ支払いの件で運転手と交渉している。どうやら「10ドルしか持っていなくて、両替はできないか。」と言っているようだ。バスは一日券が3ドルで一回乗車は2ドルなのだ。運転手は「できない。」という。それなら、「この先のスーパーで下りて両替してくるからその時でいいか。」と男性が食い下がると、運転手は渋々了承したみたいだ。


路線バスの対面座り


2人はこちらに向かって進み私の目の前の席についたが、まだ困ったようで落ち着きのなく、私に「10ドルを両替できないか。」と聞いてきた。私は1ドル札を3枚しか持っていなかったので、「できない。」と言った。が、間をおいて、「いくらいるの?」と聞くと「2ドルだ。」と言う。「じゃあ2ドルあげるよ、使って。」と渡した。すると男性は物凄く感謝して私にお礼を言って、運転手の所へ行くと、「彼がくれた、ハイ。」と支払っていた。
その後10分ほどで私は、降車するスーパー・フレッドマイヤーに着いたので席を立ちあがった。降り際にその男性と女性が凄く感謝し握手して別れた。旅は道ずれ世は情けだ。

冬季で客車3両、ダイニングカー1両


ところが話はここで終わらないのです。

 その2日後、私はフェアバンクスからアンカレッジに向かうためにアラスカ鉄道を利用することにしていた。朝8時から12時間に及ぶ列車の旅は景色が雄大過ぎて飽きることがない。途中では何回か休憩停車をしてくれる。

 列車が2回目の停車駅タルキートナに停まった時だ。乗客が休憩のために降車しようと立ち上がって動き出した。私は最後でいいと思いゆっくり座っていたら、乗客の一人の髭顔の男性が「あの時はありがとう。」と、いきなり言ってきて握手を求めたので応じたがその時は何のことか分かっていなかった。ほとんどの乗客が降車して行ったので、私も立ち上がって動こうとした時に思い出した。一昨日、フェアバンクスのバスの中で2ドルを渡した男性だ。そうか同じ列車に乗っていたのか。
私は降車後、すぐ彼とその隣にいる女性を見つけると、彼に「おおーっ、なんで僕って分かったの?」と話しかけた。なぜなら私は、列車の中で雪景色のあまりの眩しさにサングラスをしていたのだ。すると彼は「なぜかって?忘れないさ、その髭の感じとその顔だよ。」と言って、再会にガッツリとハグをした。いやあ、こんなこともあるもんだ。だから旅は面白い。
アンカレッジ駅に到着しタクシーを待っているときにも彼らと一緒になったので、奥さんの方にどこから来たのか聞いてみると、テキサスと言う。彼の方は笑って、「本当にあの時は感謝している。」と固い握手をし、またいつかどこかで会おうと別れた。

アンカレッジ駅到着

 私の頭の中では、「赤い羽根共同募金」の歌が流れていた。「♪困った時は~ああ、お互い様~・・・」 世界中、人は皆同じ。助け合いの精神は「お互い様」でどこにいても自然に行動できるようでいたい。情けは人の為ならず、自分に帰ってくる。それはこのようにすぐに「この人と出会えて嬉しい」というプレゼントとして何倍にもなり返ってくることもある。そしていつか自分が助けられる。そう期待してはいけない。いや、すでにたくさんの方々に助けてもらっている。

 この出来事を振り返る時、「旅は道連れ世は情け」という言葉も思い浮かべます。一人旅のこの時に道連れはいなかったのですが、「お互い様」の心が世界をぐっと身近に感じさせてくれ温かい気持ちになれることを実感しました。本日は、私自身がしたことの自慢話ではなく、きっと私自身がたくさんの人にお世話になるからこそ、できることは「お互い様」の精神で日常的にしていきたいという思いをお話したかったのです。
つい最近、東北地方では新たな地震に不安がつのることでしょう。それは他人ごとではなく、南海トラフを抱えている私たち九州も同じことです。災害大国日本においては、「共助」すなわち「お互い様」が復旧、復興への近道なのかもしれないと、各地の現場を見てきて思うことです。『私は能登を応援します』のステッカーは私のヘルメットに貼ってあります。お付き合いありがとうございました。

2025.12.08

待つことを楽しむ国民性(2)

   前回は、カナダ登山遠征に行くのにアメリカのシアトルで乗り継ぎ、そこで見聞きした体験で終わっていました。本日はその続きです。お付き合いください。

 シアトルからカナダのカルガリー空港へ乗り継ぎました。カルガリーといえば1988年の冬季オリンピックを思い出す方も多いのではないでしょうか。イタリアのカリスマスキーヤー、アルベルト・トンバ選手や今は参議院議員でJOCの会長となった日本の橋本聖子選手黒岩彰選手の活躍を思い出すします。

 カルガリー空港で予約していたレンタカーを皆で1台借りました。リーダーが海外での運転に慣れていたので安心ですが、好奇心も手伝って、私も予め国際免許証を出発前に取得しました。

 トラベルHPより

 カルガリーからハイウエイを通って約3時間でキャンモアという小さなリゾートの町に到着しました。その町にあるスイスのマッターホルンと同じようなピラミッド型の岩山があるのです。その山に登ったのですが、ここでお話したいのは登山終了後の町でのお話です。

 我々には悪天候に備えて予備日を設定していたので、下山後から後2日間、この町のロッジをベースに自分たちで過ごさなければなりません。つまり、ロッジは自炊なのです。それで皆で食材を買いに行くことになりました。ここでも異文化をたっぷり味わったのですが、その話は割愛して、車で街中を移動していた時のことです。

 その時は私が車を運転していました。何回か運転していたので少しは慣れてきました。ちょうど、住宅地にある交差点に差し掛かったときです。そうですね、日向で言えば比良エーコープ前交差点くらいの場所だったでしょう。(分かりますかね?) この交差点には信号はありませんでした。私たちの車は右折(日本と逆。基本的には確認のみで曲がってよい。)しようとしていたのでウィンカーを出し北進方向を向いて停止しました。すると、前方からも左右からも車が来て、その交差点で止まったのです。すると、そこへ一人のご婦人が私たちの車の前の横断歩道を右から左へ渡り始めました。私はじっとその様子を眺めていました。ほかの3方向の車もその様子を見ているようです。ご婦人はゆっくりのんびり、時には笑顔を見せながらずっと前方をうつむき加減の姿勢で渡り終えました。ご婦人は渡ってから車の方を見る様子はありません。

 さて次は交差点で止まっている私たちの車を含めて4方向から集まっている車が動き出す番です。ところが誰一人動きだす車はありません。私はフロントガラスへ身を乗り出して3方向3人のドライバーの様子を見ていると、前方の男性ドライバーが右手を前に出して水平直角にクイッ、クイッと指示します。つまり「お先にどうぞ」です。次に左右のドライバー2人を見ていると、これまたクイッ、クイッと「お先にどうぞ」をしています。私もその気になってクイッ、クイッとやります。結局そんなやりとりがしばらく続きました。ドライバーの顔の表情まで見えてきましたが笑顔です。ハンドルに両肘を乗せて「どうぞ~、どうぞ~お先に~」という感じで辺りの空気がゆったりとしています。前方、左右3人とも皆そうなのです。まるで、待つことを楽しんでいるかのようにも見えました。すでに5分近く待っているでしょうか。私の車内4人もそれを見ていて、せかす様子は起きないようです。私は好意に甘えてお先に右折させてもらいました。日本では考えられないほどのスローペースで右折しました。その後、3台の車はそれぞれ進んだようです。

 これは25年ほど前のカナダの小さな町(といっても交通量はそこそこある)での出来事でした。宿のアルパインロッジで日本人経営者と話し、「こちらに来て人生観が変わりました。」と言われた時、私は昼間にこの町で見た交差点での出来事と合致したのです。信号のない交差点で相手を先に送り出すおおらかな心と、自分のペースでのんびり歩く歩行者の行動。これはまさに大陸的なリラックス文化と、人優先が徹底しており横断歩道では急がず車にお礼を言う訳でもなく当然の権利が身についていることの姿勢なのかもしれないと思いました。その点では、島国日本とは異なる文化だと言えます。

日本で言えば、停止してくれた運転手に対する感謝と待たせることへの申し訳なさや、規範意識から、「急ぐのが当たり前」という機能が私たちには働くのかもしれません。ですから、美徳観で言えば、どちらの国にも意味はあると思います。また、日本人特に子どもたちが横断歩道を渡り終えた後にお礼の意味で会釈をするのも尊いと思います。では、先ほどの横断歩道の歩行に関しては何が違うかと考える時、「時間の使い方」があるのではないかと思います。また、大陸的なのか島国的なのかで変わるのかもしれません。「こんなに広いところをそんなに急いでどうするの。」か「狭いんだから急いだらすぐ着く。」か。必ずしもそうではないのでしょうが、ロッジの彼が言った「人生観が変わる」という時間の流れは、ロッキー山脈の麓で暮らすと確かにそうなるのかもしれません。

あれから25年が経ち、たまに現地アルパインクラブのHPを見るとその日本人は現在も頑張っておられるようです。あのカナディアンロッキーの麓の町で、今もゆったりとした時間の流れの中で暮らしておられるのでしょう。そんな暮らしの中では「待つことを楽しむ」ような姿勢が自然に身につくのかもしれません。タイパ、コスパと言われる現代の日本において「待つことを楽しむ」なんてできないのかもしれませんが、せめて「待つことは苦痛ではない」くらいの自分で在りたいと思います。

2025.12.03

待つことを楽しむ国民性(1)

 初めての海外旅行はカナダでした。40歳になってからで、それも登山のためです。舞い上がってトランジット(正確にはトランスファー)をしたシアトル空港(シアトル・タコマ空港)では見るものすべてが新しく異文化を全身に受け止めた感じがしました。

山岳会のメンバー5人で当時のノースウエスト航空を利用し、シアトル空港では2時間の乗り継ぎということでした。当時のノースウエスト航空は遅延することで有名だったそうですが、私はそのことが分かっていないのでリーダーにお任せ状態です。リーダーは海外旅行に慣れているので、知人を介して2時間以内の乗り継ぎ移動もスムーズにいくように手配していました。当時も巨大なシアトル空港では地下鉄が移動に使われますが、その行き方は慣れないと上手く次の搭乗口まで行けないというのです。それで、現地移動案内スタッフを雇うという段取りになりました。そんなことができるのかと私は驚きましたが、シアトル空港に到着してみて、なるほどこれは大きな空港だわと、どこが何やらさっぱり分からない状態でした。

入国審査と税関では、5人で事前学習を繰り返していました。同行者の一人の女性は「ハウメニーって聞こえたらテンデイズパーパスって聞こえたらサイトシーイングって言う。」とブツブツずっと繰り返していました。私は「観光でいいのか?登山じゃないのか?」などと考えましたが右へならえと決め込みました。彼女は「結局一緒のイミグレーション(入国審査)のゲートに行けばいいとよね。」と彼女が言ったすぐ後に、リーダーから「時間がかかるから少ない列に全員ばらけて。」と指示があり、5人皆がバラバラにゲートに入ってしまいました。私も一瞬不安になりましたが、先ほどの彼女の「なんでばらけると~」というとても不安な顔は今でも忘れません。それでも皆無事に入国審査を終えて揃いました。彼女に「どうやった?」と聞くと「必死にテンデイズとサイトシーイングを練習していたら、いきなり『何日?目的は?』って日本語で聞くっちゃから!私が英語が話せんて見抜いたっちゃろか。」と憤っていました。

入国審査を終えロビーに出るとすぐに、シアトル在住の女性空港案内人が小旗を持ってにこやかに待っていました。彼女の後をついて導かれるままに次から次へと地下鉄を乗り継ぎ、あっという間に乗り継ぎ便の待つ搭乗口に着きました。さすが地元で詳しいなあと感動したものです。

現在のシアトル空港はX字型にコンコースが配置され分かりやすい

 

おかげで時間に余裕ができたので待合室でのんびりしていると、その案内人が「あそこに皆さんが行列を作っているのがシアトル発祥のスターバックスコーヒーです。今度東京にも1号店がオープンするそうですね。」と言われ、聞いたこともないコーヒー店の名前で分からなかったのですが、コーヒーは好きだし時間はまだあるので、そのブースのある行列に並んでみることにしました。

皆2人ずつ並んで私のところまで10組以上いたと思います。列は遅々として進みません。それでも焦らず少しずつ前に進んでいると、付き添ってくれた案内人がこう言いました。「こちらの人は待つことが苦痛じゃないんです。むしろ待つことを楽しんでいるんです。」と。ホーッ!これには頭をガーンと金槌で殴られた感じがしました。

私の順番が4番手くらいになったとき、前の人たちの様子を見ていると、先頭の人はショップのスタッフと色々話をしながらメニューを選んでいるようでした。これは分かります。ですが、2番手の2人は、まったくショップのブースの方を見ずに、2人で仲良くペチャクチャと話をしていました。すぐにその人たちの順番が来ました。来たというか、ショップスタッフに「ハーイ次の方!」と言われてショップを向き直った感じです。それからその2人は「これは何?どんな味?お薦めは?」などと、色々と質問してはにこやかに笑いながら決めあぐねているようでした。スタッフは行列が長く続いていることもちろん分かっているようですが、その2人に温かな笑顔で対応しながら、一つ一つの質問に丁寧に答えていました。

日本人なら(いや私なら)、順番が3番手くらいになりメニューが見える位置に来た時には、何にしようかと色々考えて決めておくことが多いのではないかと思います。それは、楽しみだから早く求めたい期待や、後ろの人に悪いからという配慮が働いて、行動を早くしようという動きに出てしまうのではないかと思ったところです。

「待つことが苦痛ではない。」「待つことを楽しむ。」 そしてスタッフも「後ろを気にせず目の前の相手に尽くす。」 これは、初の海外旅行が遠征登山であったにもかかわらず、自分の在り方に大きく影響し登山よりも大きな収穫だったような気がします。カナディアンロッキーの雄大な自然の中で登山できたことは大変大きな喜びでしたが、異文化から自分の行動の襟を正すことを学んだことを、授業の隙間に子どもたちによく話していました。もちろん、日本人の後ろの人に気を遣うという行動も美徳ではあると思っています。ですが私はその登山から帰国後、コンビニやほかの場所で行列ができていても気にせず並び、前の人やスタッフが慌てている様子に出会うと「ゆっくりでいいです。」と素知らぬ態度でいようとしたり、前の人に詰めすぎないようにしたりすることができるようになりました。

現在のシアトル空港「スタバ」はきちんとした店構え

海外で自分の在り方を学べたという話でしたが、海外だからということではないと思います。国内でも地元でも「相手への思いやり」や「おもてなしの心」などは意識していれば沢山学ぶ機会に毎日出会うと思われます。この遠征でのお話には続きがありますので、今日はここで総括せずに、ロッキー登山遠征で学んだ「待つことを楽しむ国民性」について、次回に送ります。

2025.12.02

サッカーにまつわる話

 

 キリンチャレンジカップ20251114日に行われ、日本代表ガーナ代表に勝ったのですが、この試合の中でアクシデントが起きてしまいました。Soccerkingのニュース2025.11.14から要約します。

 試合の後半に、MF田中碧選手MFアブ・フランシス選手が交錯しフランシスの右足が持っていかれる形となったのです。試合後、アッド監督は、「スタジアムにいる観客の方々、関係者の方々の姿勢などを見ても思ったことですが、日本人は礼儀正しい方々ばかりだと感じています。選手本人がわざわざベンチまで来てくれて、選手本人ところだけでなく、監督のところまで謝罪にきてくれました。決して当たり前なことではありません。日本という国の教育がしっかりしていることを感じました。サッカーというスポーツでは、ハードにぶつかり合う場面も発生しますし、残念ながらこのようなことも起こり得ます。ですが、そのようなことがあったとしても、謝りに来られることは当たり前ではないのですから」と続け、田中選手の行動をリスペクトしたそうです。

 

 故意でない負傷の場合に試合中に相手ベンチへ駆けつけるという行為は私は過去にも記憶にありません。これは余程の相手への思いやりではないかと感動した次第です。サッカーのみならず、様々なスポーツにおいてこのような相手へのリスペクト、またそれによる相互の信頼関係の構築などは実際にあるのでしょう。

 ところで、私の知るサッカー少年は、一人はプロサッカー選手になり監督までして誰からも信頼される良き社会人となっているようです。また、同じクラスのもう一人のサッカー少年は、その後走ることに目覚め、箱根駅伝を東大生として走り抜け、現在は議員として庶民のために尽力し活躍しているようです。サッカーだったから人をそう成長させたということではないのでしょうが、家族を含め多くの方々から愛される人望を供えるべく成長できたことが、本人の人としての在り方を形づくっているのかもしれません。「どう生きるのか。」「どんな人生を送るのか。」長い旅の途上にある人としての生き方が試されるのが人生なのかもしれないと思うこの頃です。とは言っても、人生は長いようで短い、これもまた事実です。そこで前期高齢者へ向かう私としては、「どう下るか。」これも一つの課題に加えたいと思います。

 宮崎市大淀川にて

奈良時代初期の歌人・山上憶良が「秋の七草」と詠んだススキ。風に揺られるも倒れずしなやかな立ち姿。こんな生き方もいいのかもしれません。決して「化物の正躰見たり枯尾花」と猜疑心をもって言われないようにしたいものです。

2025.12.01

人に思いを馳せる

 私はずっと登山をやってきました。登山家というにはおこがましいので山屋の方が似合います。ほかに「岳人」(ガクジン)という呼び方があります。同じネーミングでモンベル社が出版する山岳雑誌があります。岳人という呼び名の場合は何となく洗練された気品すら感じますが、それは私には不釣り合いです。さて、「九州の岳人は久住に始まり久住に終わる」という言葉もあります。ご存じでしょうが、この久住は大分県九重連山の山々を指します。「久住」という場合は名峰(最高峰は隣の中岳1791m久住山1786mを指します。そして「九重」という場合は、10座以上のピークを持つ一帯の連山を指します。したがって、「久住山」「九重連山」という使われ方をします。郷土の境界や山頂名などを巡っては全国各地で色々な獲得論争があったようです。私も九州の山屋の一人として、まさに登山は久住山から始まりました。春夏秋冬いつ行っても優しく厳しく迎えてくれ、たおやかな山容に包まれている感覚が好きでこの連山にはよく通います。

 さて、前置きが長くなりましたが、本日はその九重連山で高校生が活躍をしている話が毎日新聞に掲載されていましたのでお届けします。(抜粋になります) 

くじゅう連山(大分県九重町、竹田市)を毎秋、玖珠美山高(玖珠町帆足)の3年生が訪れ、登山道の補修に当たっている。13回目を数える今年も、生徒20人が苦闘しつつ山岳関係団体の協力で、くいとロープを交換。登山客の安全を下支えする。…前身の玖珠農高時代からくじゅうで外来生物の駆除などに取り組み、2012に豪雨などによる浸食で傷んだ登山道の補修を始めたのがきっかけ。農業などを学ぶ地域産業科の3年生が「ふるさとの自然を守る卒業記念活動」として、ほぼ毎年続けている。牧ノ戸峠から生徒たちが向かったのは、沓掛山に至る途中の登山道。一部区間の古くなったロープと木製のくいを新調するため、一行は新しいくいを背負い、スコップなどを手に、急勾配の登山道を歩いた。山登りに不慣れな生徒からは「きつい」との声も漏れる。

 現場に着くと、スコップなどを用いて古いくいの撤去に着手。しかし、くいを倒れにくくするために取り付けられ、土中に埋められた「横木」が、撤去作業を難しくする。山岳関係者から「簡単には抜けない。くいの周りから掘って」と助言され、苦戦しながら掘り進めた。それでも抜けず、つるはしを使ってようやく掘り出した。古いくいを手にした谷崎斡律さん(17)は「ずっしり重い。くいに横木があるのを初めて知った」。新たなくいは、横木をボルトで固定して埋め、さらに大きな木づちで打ち込む。「学校の実習で電気柵を設けた時は専用のくい打ち機を使ったが、それに比べると木づちは重くて操作が難しく、想像よりきつい」と藤井柊平さん(17)。生徒たちは2時間かけて計21本を交換。ロープも張り替えた。古いロープをのこぎりで切って回収した古川釉那さん(18)は「大変だったが、登山客が安全で登りやすくなるのはうれしい」と笑顔を見せた。…毎回同行している山岳関係団体の「九重の自然を守る会」の高橋裕二郎理事長(77)は「本当にありがたい。みんなの活動でくじゅうは守られる」と感謝する。同校農場主任の永楽浩一郎さん(64)は「学校では地域に根ざした教育を目指しており、地元の山は農業につながる根本でもある。自然や環境に関わる活動を、今後もできる限り続けたい」と話した。

 

沓掛山 HP記事より

 

記事を読んで、久住登山をされる方なら場所について鮮明に思い出すことができるのではないでしょうか。牧ノ戸峠からきついセメントの坂を約20分上ったところの右側に展望所があります。そこから少しの岩稜帯を抜ける所にあるのが沓掛山となります。昔まだ積雪量が多い頃には、高さ5mほどの岩でさえ雪に埋もれることがありました。その角度のある岩と岩の間の雪面に動物の足跡がくっきりと残っていたこを思い出します。この沓掛山の一帯を玖珠美山高校の生徒が毎年、登山道整備を続けてくれていたことは知りませんでした。本当に有難いことです。木道やロープは人工物なので風雨に晒されたり、人が通過することで劣化が進みます。何気なく通過する、あるいは、登山なのでともすれば自分のきつさだけを考えて足元の登山道の整備状況を考えずに通過してしまうことがあるものです。こういった地元の方の努力によって環境が維持されていることを考えられる登山者でありたいものです。

 生徒古川さんの「登山客が安全で登りやすくなるのはうれしい。」や高橋理事長の「みんなの活動でくじゅうは守られる」という言葉は、人に対する温かな営みを表していると思いました。また、農場主任の永楽さんは「学校では地域に根ざした教育を目指しており、地元の山は農業につながる根本でもある。」と話され、地域の中の学校であることや、自然は必ず自分の生活と結びついていることを自覚して生活することの大切さを話されていると感じました。

 サーフィンにもローカリズムはありますが、登山のローカリズムはこのような発信がないかぎり誰が維持しているのか大変分かりづらいのが現状です。これまでも感謝しながら登山をさせていただいていましたし、自分で「一山一善」と称して必ずゴミをワンハンドくらいは拾うようにしてきましたが、さらに各地の登山では地元の人の思いを考えられる山屋でありたいと思います。

2025.11.27

マーケティング思考

   201810月から始まったNHK連続テレビ小説『まんぷく』は、日清食品の創業者である安藤百福と妻の仁子の半生を描いた作品でした。本日は経営者のみならず、消費者である私たちにとっても消費経済の中で重要な位置を占めるマーケティング(商品やサービスを展開する活動全般)が必要な学びとして伝わってくると思えますので、Business Journal / 2019年大﨑孝徳から要約してお伝えしたいと思います。

NHK「まんぷく」より

 

『朝ドラ『まんぷく』は極めて優れたマーケティングの教科書である』

ドラマ『まんぷく』では、顧客を満足させる重要なポイントとしての「4P」すなわち、商品Product)、価格Price)、流通Place)、販売促進Promotion)が打ち出されている。

 ドラマのなかで「まんぷくラーメン」となっていたチキンラーメンを売り出すために、テレビのコマーシャルや売り場における試食販売を開始した「販売促進」を行っている。…

 また、容器に入ったラーメン「まんぷくヌードル」(カップヌードル)の開発コストから100という当時では極めて高価格に設定し、発売するも受け入れられなかったために、タクシー会社など、夜に仕事をする人たちをターゲットに販売は好調に推移し始めた。さらに、屋外での飲食に対して当時の日本では多くの人が抵抗感を持っていたため、新しいことに対して寛容な若者をターゲットに歩行者天国での販売を行い、まんぷくヌードルは若者にとってファッションとなる。

 現在の日本の大企業であるならば、商品開発担当者は単に商品の機能的な部分を担当するだけで、価格や流通や販売促進には完全にノータッチな場合が多い。しかしながら、4Pにおける4つの要素は、強く連携できていなければならない。

 

  内容をかなり凝縮してしまいましたので、氏の考えが十分に伝わらなかったかもしれませんが、学校での日々の授業よのなか教室を4Pで考えるとどうなるでしょう。商品を学習目標(よのなか教室のねらい)、価格を学習活動(講話受講)、流通を主体的な対話(生き方の再構築)、販売促進をまとめ提示(獲得した価値と学習意欲)としてみましたが難しいです。(いや~、頭を悩ませます。アドバイスをください。)それにしても、学びを「流通」させることや「促進」させることは、実に難しい課題だと気づきました。

マーケティングについては大﨑氏の考え方以外にも多くの手法が存在することは、市場経済の中で日々活躍されている方々はよくご存じのことでしょう。マーケティングをあまり意識しなかった私のような「学校人」にとっても、教師が生み出した授業というものをどう展開していけば、それが対象である児童生徒に定着していくのか。或いは、学校での活動保護者や地域にどう浸透していくのかなどを考えてみるにはとてもよい思考だと思った次第です。社会が様々な人々によって成立している以上、協働・進化・発展することが大事なので、日向市のキャリア教育も普及発展できるように意識しながら頑張らなければならないと再認識しました。

昨夜のNHK『クローズアップ現代』にエジプト考古学者の吉村作治さんが登場しました。御年82歳だそうです。クフ王の墓の発見を追い求め、スタッフの若者同士の意見が対立していた時、吉村さんは黙ってじっと聞き最後に意見を述べました。「ある程度まで掘ってみてそこでGPR(探査機)を使ってみればいいじゃない。」これは、若い二人の意見の折衷案だったのです。私は、すでに体調が悪く現場にいるだけでも大変なお体なのに82歳のお年で若い人たちの意見の折衷案を自分の考えとして提示できるその柔軟な思考に大変驚きました。歳を取り頭が硬くなるのは致し方ないと思っていましたが、吉村さんを見て、いやいや思考はまだまだ鍛えられると思いました。日々激しく変化する時代に対応できるのは人間ならでは価値であり、柔軟な思考こそが時代を乗り切る自己のエネルギーかもしれません。 マーケティングから若干それましたか…。

2025.11.26

言語・漢字を覚える時期と教育

  最近はタブレットを使用した授業が多くなり、黒板に書かれた内容をノートに写し取るという作業を子どもたちが行う機会が以前に比べて減っているようです。どちらが良いという話ではなく、言語特に漢字を覚えるという観点でのお話になります。

私が小学校高学年や中学校で授業をしていた時のお話です。私が授業中に板書をします。するとそれを子どもたちがノートに書き写します。私は「黒板に書かれている内容を丸写しにするのではなく、自分の言葉にかみ砕いて要領よくノートに書きなさい」と話していました。ところが、それを実行していた子どもは三分の一ほどで、ほとんどの子はそのまま書き写していたようです。板書のスピードが速いので、頭の中で整理することの方に時間がかかってしまうからです。それでもこれが可能だったのは高学年児童あるいは中学生だったかもしれません。本日は「視写」という観点については脇に置いておきましょう。本題は言語をいつ獲得するかというテーマですから。

私は板書している最中にその漢字が国語の時間に学習済みであるかどうかはあまり考えませんでした。小学校の担任の場合、今国語の時間にどの漢字までを学習しているか分かっています。基本的に教科書は、前学年で学習した漢字のみ使用するようになっています。ところが私は、国語以外の時間では、板書でバンバン未修の漢字を使用していました。もちろん、極端に難しい漢字の使用はしません。すると決まって子どもたちから「センセー、その漢字まだ習っていませ~ん。」と声が飛んできます。そこで「じゃあ読めないの?」と聞くと「読めます。〇〇ですよね?」というので、「読めるじゃない!ならいいよ。」と素知らぬ顔でくるりと向きを変え、またひたすら板書します。子どもたちからは「えッ、書いていいの?」とボソボソと聞こえたり、「センセイ、書いていいんですか?」と聞いてきたりします。それで「書けるんなら書いたら?ここの筆順はこうだよ。」と言うとまたすぐに私は書き始めます。黒板を向いているふりをして、子どもたちの様子を伺っていると、「オオーッ」とか「うひょ」とか軽く奇声を上げたりして喜々として猛然とノートに鉛筆を走らせる子が増えるのです。もちろん、その一方で「何て読むと?」と隣の子に聞きながら平仮名で書いている子もいます。ここで私は書けることより読めることを優先していました。

私が言いたいのは、子どもは、いや、人は言語(漢字)を覚える(読める)年齢が決まっているのかということです。答えは明らかに「ノー」です。小学校で1026文字、中学校で1110文字(常用漢字を含め変更がある)、合計約2000の漢字を覚えて義務教育を卒業するようになっています。これは、約2000文字を覚えると新聞が読めるようになると学生時分に聞いたことがあります。すなわち社会的自立を目指す教育なので日本国民として一定の言語力をつけて欲しいという意図なのでしょう。さすがによく考えられた義務教育課程だと感心します。当然、その9か年の発達段階を考慮して漢字の編成も行われることになります。

平均的な記憶量として各学年に定量的に分散させている漢字数でしょうが、子どもの学習量に個人差があるのは当然なので、私の場合、当該学年の漢字量で限定して指導する必要はないと考えてのことでした。当時「難しいです」と数名の子からは速攻批判をもらったこともありますが、年度初めに「そういうもんだ」とか「そうするからね」とか理由を話し逃げ道(平仮名)も併せて理解させておくと、特にブーイングも起こらず、苦にもされなくなりました。難しそうなものはそんなに書くことはしませんでした。

さて、ここからです。今のは高学年あるいは中学生での例でしたが、低学年ではどうでしょう。幼児が言葉を覚えるのは耳からですよね?その子たちが英語をペラペラ覚えてしまうのも同じことです。では、幼児が絵本の言葉を指さしながら「ぞう」とか「本」とか言っているのは画像を見ているからですよね?そういうふうに、まだ脳が十分に発達していない小さな子たちほど、ものの名前を画像で認識するようです。つまり画像処理能力が高い訳です。ということは、漢字は小学校に入ってから習うものと限定しなくても、絵本に出てくる漢字がもしあったとしても、「これは読ませられない」と止めずに、子どもに見せながら読んであげると、そのまま物語として受け止めるはずですし実際そうされてますよね。子どもも「この本は漢字が難しいから嫌だ」とはあまり言わないはずです。つまり、漢字を耳から聞こえた言葉として認識しているのです。すなわち、その子にとってそこの漢字はただの画像でしかないのです。それで読み方を覚えてしまえばそれでよいではないでしょうか、ということが言いたくてここまで書いてきました。

するとどうでしょう。先日読んだ雑誌の中に対談があり、まさに同じようなことを言っているのだと納得したものがありました。以下に紹介します。

 東京いずみ幼稚園の園長小泉敏夫氏と安松幼稚園の理事長安井敏明氏の対談を要約します小泉氏「元小学校教師の石井勲先生が確立した『読み先習』とは、漢字を書くのはしっかり読めるようになってからで十分という考え方です。『はしのはしをはしをもってあるく』よりも『橋の端を箸を持って歩く』とした方が読みやすいし理解しやすいのです。幼児期の脳は『写真記憶』と言われる機械的記銘能力に優れていて、すぐに丸暗記できてしまう。漢字は難しく思えても、その分、ひらがなより識別しやすいから覚えてしまうんです。」安井氏「赤ちゃんは親が言葉を教えたつもりはなくても、一年半か二年半で日本語を獲得するでしょう。意味が分からなくても、家族が日本語で話しかけることがよい教育環境となったんです。幼稚園児に漢字を教えるなというのは、赤ちゃんに話しかけるなと言っているも同然です。違いは、話し言葉は耳から、文字は目から入るという点だけです。」

 私は現在小学校で行われている漢字などの文字指導を否定しているのではなく、ご家庭での言葉と文字(漢字)の扱い方については自分のお子さんに「適時に指導する」という考え方でよいのではないですかとお伝えしたいのです。

 うちの孫三歳児の話です。孫が二歳を過ぎた頃から食事中に左手を遠く離したまま食事する場面があったので、「左手を添えて」と私が言いながら左手を持って茶碗に添えさせていました。それが現在では「左手!」と言っただけで孫はサッと茶碗に手を添えるようになりました。これは上記で言う「話し言葉は耳から」に当たりますが、本人は「左手」の意味を「こっちがわの手のことね」などと理解しているのではないかと思います。そのうち、「左手」の漢字を見せてみようと思います。「写真記憶」するのではないかと楽しみにしています。

 そういう私はと言いますと、kindleで簡単にダウンロードした書籍が溜まる一方で一向に進みません。もっぱらペーパーバックと言われる文庫本を手にしながら読むのが好きですし、まだまだ山積みの未読本があるのが嬉しいです。随筆や小説、ビジネス本など色々なジャンルの本を読みながら多岐に渡る言葉の表現の違いを楽しむのも一つの言語獲得の方法かもしれません。その中にはまだ出会ったことのない漢字表記があったり、著者独特の風景描写があったりして実に楽しいものです。歳を取ると読書は一つの脳の若返り効果がありそうで、こちらが期待大ですかな。長々と文章のみの本日でした。失礼します。

2025.11.18

女子サッカー

 15日(土)、初めて女子サッカーの公式戦「皇后杯」を観に行きました。前日宮崎にいて新聞を読んでいましたら、門川出身であるヴィアマテラス宮崎水永監督が今大会で退任されるという記事がでていたので、これは行かねばなるまいとなったのです。

 スタジアムは想像を超える大きさと立派さで圧倒されました。サブグラウンドなども充実していてフィジカルセンターも設置されていました。インターチェンジから近いのですが、アクセス道路が少し狭かったかなと思います。

 さて、試合ですが、相手は日体大SMG横浜という、やはりヴィアマと同じくなでしこ一部リーグのチームです。試合は始まってすぐにゴール前の接戦からヴィアマが失点してしまいました。その後、見事なシュートで1点を取り返し後半へ入ります。するとまた日体大SMGに1点を取られましたが、またヴィアマが取り返すという大変面白い試合になりました。同点に追いついたので、さあこれから逆転に進むというはずが、相手に追加点を許し結局そのまま試合終了となってしまいました。

  

 試合後監督は、たくさんの応援をもらいながら勝ちきれなかったのはすべて監督の責任だと語っておられましたが、失礼ながら、見ていて大変面白い、感動する試合でした。点を取られても決して諦めず点を取り返すというあたりがこのチームの底力なのかもしれません。以前テレビ番組で、ヴィアマの選手が新富町の地域協力隊として地元に根付きながら町民と深く触れ合って活動を続けている姿を見ました。それで町民の高齢の方々がサッカー場まで出向いて選手を応援するようになり、まさに地域一体型のスポーツだと深く納得する次第でした。監督は「戦い敗れて兵を責めず」というリーダーとしてあるべき姿を見せてくれたのだと解釈しています。私の好きな言葉に「桃李もの言わざれど下自ずから径を為す」があります。水永監督は、本当は恥ずかしがり屋で人前に自ら出ていくタイプではないと聞いていますが、監督のように多くを語らなくともその人格に人は付いてくるという皆に慕われる人材が日向圏域から輩出されることを心から嬉しく思います。私も益々キャリア教育に力を入れ、現在の仕事を頑張らなければならないと心に秘めながら、まだ爽やかな霧島下ろしが頬を撫でるスタジアムを後にしました。

 *同日の男子サッカー、水永監督前所属のテゲバジャーロ宮崎はAC長野パルセイロに勝利しJ2昇格へのプレーオフ進出を決めました。こちらもこれから目が離せません。

2025.11.12

銀河の話

 台風26号はフィリピンに甚大な被害をもたらしています。何ができるか考えたいと思います。

さて、宮崎県の天気は良くないのですが秋はを見るには絶好の機会なので、壮大な宇宙へ思いを馳せながら夜空を見上げるのはいかがでしょうか。好きな分野ではありますが宇宙に関する知識が深い訳ではありませんので表面的な話になりますが、長いようで短い人生に宇宙が送ってくれる癒しの輝きについて、しばしおつきあいください。

車輪銀河(提供:NASA, ESA, CSA, STScIAstroArtsより

  最近のニュースで、ちょうこくしつ座(南のかなり低い位置)の方向にある5億光年の距離に位置する「車輪銀河」をジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡が撮影したと知りました。大きな銀河でスポークがついた車輪のような姿をしています。何とも美しく奇妙でもある不思議な姿をしている銀河だと思いました。

 我々地球人にとって5億光年という天文の単位はまったく想像の彼方の世界でイメージすることすら難しい距離になります。光が一年で進む距離が1光年で約9兆5000kmであり、月までが約38kmで、太陽までが約15000kmということです。

夏の星座である大三角をつくる、こと座のベガ、はくちょう座のデネブ、わし座のアルタイルは小学生で学習するので有名ですが、ベガが織姫でアルタイルが彦星という別名があります。この大三角をつくる3つの星はデネブが天の川の中ほどに見られ、ベガとアルタイルが天の川を挟んで対峙している、つまり地球から見ると、大三角が同じくらいの平面で三角をつくっているように見えますが、実は、デネブは地球から1400光年離れていて、ベガは25光年、アルタイルは17光年離れているので、どれも同じくらいの位置にあるということではありません。あくまで地球から見かけ上の形で、星座は夜空の大きな天球に張り付いたように見えるだけです。地球から割と近い「天狼」と呼ばれるおおいぬ座のシリウスでさえ約8.6光年離れているので、星々は途方もない位置にあることが分かります。

霧島にて

私たちは、直径が10万光年ある天の川銀河に暮らしています。不思議だと思いませんか?銀河の中にいて、どうして天の川が見えるのか? 私たちが暮らす太陽系は、その天の川銀河の中でも端の方にあり、中心から28000光年の位置にあるので、渦の中心(巨大なブラックホール)方向から伸びている「」と呼ばれるほかの「川」を見ていることになります。沢山ある「腕」のうち、我々は「オリオン腕」に暮らしています。この天の川銀河の中だけでも太陽のような恒星が約1000億個以上もあるとされています。そうなると、興味のある人は「なら宇宙人はいるのか」と思いたくなります。世の中には、その地球外生命体(ET)を見積もる計算式を考えた人がいるそうです。その話も長くなるのでまたいつか・・・。

現在の研究では、理論上の宇宙の果てまで約500億光年の位置までは分かっていてその先はまだ分からないそうです。その宇宙全体には、我々の住む天の川銀河のような銀河が2000億個以上あるとされています。

御池にて

初めに話を戻します。1光年ですらすでに想像が難しくなるのですから、ジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡が撮影した「車輪銀河」の約5億光年先の位置を想像することは無理なことですが、そのような遠い宇宙にこのような美しい輝きを見せる銀河があるということを想像することは楽しいことではないでしょうか。その中には太陽系みたいな天体のグループがあり、地球のような星があれば誰かが自分と同じように夜空を見上げているのかななんて想像するのも楽しいです。地球から見て太陽と反対側の150kmの宇宙を漂いながら今後も撮影可能な距離を延ばすであろうジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡の活躍に期待したいと思います。

そうそう、私たちの天の川銀河と220万光年の距離にあるアンドロメダ銀河は今後衝突するということが分かっています。エッ!衝突!大変! しかし、広大な銀河なので太陽のような恒星同士が衝突する可能性はほとんどないと言われています。そもそも衝突は約40億年後だそうです・・・。

クルスの海のモニュメント

 

 

 

 

2025.11.10

ワールドシリーズに見るキャリア

 MLBドジャースWSで優勝し早1週間以上になります。野球好きな方は感動を共有されたのではないでしょうか。私もその一人です。サムライ3人衆の活躍は皆さんよくご存じの通りだと思います。一方で、チームメイトであるアレックス・ベシア選手が大勝負の舞台を欠席していたことに対する出場選手たちのエピソードには改めて生きていく上での大切な視点を与えられた気がします。すでにご存じの方も多いとは思いますがご紹介したいと思います。

 

1023日(日本時間24日)、WS前日にドジャースは救援左腕ベシアがチームを離脱すると発表した。球団によると、離脱理由は家族の深刻な問題に向き合うためで、公式Xは「心から悲しいお知らせですが、アレックス・ベシア選手は、妻ケイラさんとともにチームを離れています。ドジャース組織全体は、ベシア一家に心からのお見舞いと祈りを送っています」と伝えた。

この発表を受け、ドジャース救援陣はWS期間中、ベシアファミリーとの共闘を示す意味で、帽子にベシアの背番号「51」を縫い付けて登板した。そして、この動きは対戦相手であるブルージェイズ側にも広がり、救援陣がドジャースと同じく帽子に「51」を刻みマウンドに立った。

敵味方関係なくベシアファミリーにエールを贈る行動は、多くの称賛を集めた。“キケ”ことエンリケ・ヘルナンデス内野手は「ブルージェイズがああいうことをしてくれたなんて、本当に信じられなかった。WSという最高の舞台で勝利を追い求めている時でさえ、彼らは人生には野球よりもっと大切なことがある。野球はあくまでスポーツなんだと分かっている。あの状況でそうした行動をとってくれたことに、敬意を表したい。そして、我々は彼らに感謝しているということを伝えたい」と語った。また、ロバーツ監督も「本当に大事なものは、まさにああいうことなんだ。本当にアスリート同士の絆を表していると思う。お互いにどれだけ尊敬と愛情を持っているかを物語っている。これはアレックスへの、とても大きな敬意の表れだよ」と、感謝の弁を述べた。

                      MLB総合ニュースより>

 ワールドシリーズの頂上決戦という大舞台においてでさえ敵の選手にリスペクトを示すことができるその心の在り方、それこそが人として目指す一つの姿ではないかと改めて考えさせられました。「キャリアを積み重ねる」というのはまさにここにあると思った次第です。「自己の在り方、生き方」が問われるという見本を私も肝に据えたいと思う出来事でした。

   

2025.11.04

本の話「分人主義」

 昨日11月3日(月)は五十猛神社大祭が催されました。若干の肌寒さはありましたが秋晴れのもと、財光寺地区はお祭り一色になりました。午後のパレードには各地区の仮装隊も登場することはよく知られていますが、午前中はそれぞれの地区を回っていることはご存じでしょうか。高齢者施設や支援施設を含め、地区内にある商店や個人宅の前で踊りを披露しました。午後のパレードは旧道を封鎖し沿道にはたくさんのお客さんが来られ大変な盛り上がりでした。奉賛会や各地区代表の皆さん、ひょっとこ踊りの厄年の方々、警備の方、その他大勢の方々が関わりながら地区の行事が実施されていることを改めて感じる一日となりました。パレードの出発点となっている財光寺南小学校には毎年お世話になっております。皆さん一日お疲れさまでした。

 

 さて、祭りの話が長くなりましたが、本日は読書の秋にちなんで最近読んだ本の中から一冊紹介します。平野啓一郎著『私とは何か』~「個人」から「分人」へ ~ です。この方が言うには、「分人主義とは、…『個人』に対して『分人』とは、対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格のことです。中心に一つだけ『本当の自分』を認めるのではなく、それら複数の人格(分人)すべてを『本当の自分』だと捉える考え方を『分人主義』と定義しています。」だそうです。内容を途中省略しながら少し紹介します。

手紙を届けるのが得意な人がいるから、郵便局が作られたのではなく、手紙のやりとりが必要だから、郵便局が作られ、そこで働く人が求められているのである。そして、職業の多様性は、個性の多様性と比べて遥かに限定的であり、量的にも限界がある。…(略)十年前のあなたと、今のあなたが違うとすれば、それは、つきあう人が変わり、読む本や住む場所が変わり、分人の構成比率が変化したからである。…個性とは、決して生まれつきの、生涯不変のものではない。…(略)私は、小学生のころは何とも思わなかったのに、中学生になると、母親が運動会を見物に来ることが、急にすごくイヤになった。私だけではない。同級生は大体みんなそう言っていた。私は、親と喋っているところを友人に見られるのがイヤだったし、級友と必死で騎馬戦を戦っているところなどを、親に見られるのはもっとイヤだった。私は、それをただ、思春期になって親離れを始めたからだと考えていた。しかし、この問題も、むしろ、分人に着目して考えた方が腑に落ちる気がする。私はやはり、親に対する分人友達同士の分人とが、混ざってしまうことを嫌っていたのだろう。友達向けに目いっぱい分人化しようとしても、どこかで親に見られているという意識が、それを邪魔してしまう。帰宅後、「家では見せないような表情を見た」などと言われたくない気持ちがあった。別段、年頃になって、親を毛嫌いし始めたというわけではなかったのだ。(略)2010年にチリの鉱山で、33人の作業員が坑内に閉じ込められるという落盤事故が起きた。救出までの数カ月間、坑内の作業員は、家族と電話で話せるようになっていたが、そのことが、彼らのストレス軽減に大きく寄与した。これは、閉じ込められた工員仲間との分人だけでなく、家族との分人も生きられるようにするための配慮だった。もしそうした外部との連絡手段が確保されなかったなら、坑内では凄惨な状況が発生していたかもしれない。…(略)人間は、たった一度しかない人生の中で、出来ればいろんな自分を生きたい。

 

「個人」ではなく「分人」。一つの個人という捉え方より、個人はさらに多様な側面を持つ「分人」に分けられるという考え方は面白いと思いました。会社での自分(分人)や家庭での顔、学校での顔、友人間での顔と人それぞれの付き合い方での自分という人格を変化させながら上手く生きるということなのでしょうか。「人間」とは「人」と「人」の「間」を生きる者というどこかで聞いた言葉を思い出しました。興味のある方は秋の夜長に本書を読まれてはいかがでしょうか。それともシングルモルトを片手にマイルス・デイビスに耳を傾ける、そちらもいいですね。

2025.10.22

仕事をする意味

 本日、財光寺中学校のオープンスクールを見学させていただきました。教室を2年~3年~1年と回っていくと生徒の学習態度はいずれも静かで真剣でした。スルスル、コツコツという鉛筆が走る最小単位の学習音が聞こえ、教室っていいなあと改めて感慨深いものがありました。学級活動の授業で学習や進路についてアンケートを記入する姿からはじっくりと思考しながら自分と向き合っているような印象を受け、まさに進路は自分で形づくり掴んでいくものということを走る鉛筆から受けた思いがしました。児童生徒がいつの日か責任世代となり自分を振り返った時に、自分の仕事が社会貢献と働く意味にぴったりと一致していたと胸を張って言えることを願うばかりです。今日のオープンスクールから、現在の日向の小学生、中学生が今後どのような人生を歩むのか、心配しながらも楽しみな部分が大きくなり、益々「子供たちの先生」である日向の大人の一員として頑張らなければならないと気合いを入れ直し良い見学になりました。皆さんもぜひ、お近くでオープンスクールがありましたらお出かけください。 

責任世代を通過し現在は後進(息子)の指導も行いながら現役医師である私の尊敬する消化器内科医のブログからある日の日記を紹介します。

「先日ある病院から80代半ばの患者さんが大腸カメラ目的で紹介されて来た。大腸検査は初めてと随分不安そうであった。高齢者の大腸カメラはリスクが高いので慎重を期する。大丈夫ですよ。安心して任せて下さい。工夫を凝らして下剤をかけて何とか検査ができる状態になった。初めてで心配でしょうから寝ているうちに検査を終えときますね。といざ検査開始。慎重にカメラを進めると予想通り病変が見つかった。安全第一で手術を終え、二階のベットで寝て頂いた。数時間後に患者さんが目を覚ましたので詳しく説明をしてそれではとお帰り頂いた。帰り際いきなり患者さんが握手をさせて欲しいと言うではないか。ええっ握手ですか。ハイ、手を差し出すと患者さんは僕の手を握りこの温もりは一生忘れませんからと言う。続け様に、先生いつまでも長生きして下さいね…。ここまで言われるとさすがに僕も熱いモノがこみ上げた。」 

 仕事には必ず相手というものが存在します。その相手を十分に満足させられたときに自分の仕事に対する価値が高まることになります。上記のドクターの話はまさに相手の満足度を十分に高めた結果得られた自分の満足感を表したものでしょう。私も再スタートしましたので、事業所の皆様や学校現場の先生方、そして何より日向の子供たちが満足できる活動になるように支援していきたいと思います。

  <消化器内科医の記録より>

 

2025.10.20

オーロラ~五感を働かせて

 土曜・日曜、市内では運動会を実施した小学校がありました。天気も何とか持ち良かったです。お疲れさまでした。   

 今月からキャリア教育支援センターに着任しまして、初日から各方面へご挨拶に伺わせていただいております。よのなか先生による児童生徒への授業やよのなか挑戦での調整が多いことから事業所のみならず学校へのご挨拶も行っています。その学校というもの、長年勤めてまいりまして職業的な勘といいますか、動物的なアンテナといいますか、正門を入った途端に何かしらの空気を感じ取ります。「ウン?ここは穏やかな時間が流れている。」とか「おや?何だろう、この清涼感は。」 はたまた、「正常な“学習音“が聞こえて頼もしい。」などと良い気分になります。これまで伺った学校ではそのような空気といいますか、心地よい波動を感じさせていただきました。まだ自分には感じる五感がいくらか残っているという確認もなりました。(笑)

 

アラスカ、氷点下25度の極寒の夜更けに寒さ対策で地面の雪をキュッキュッと踏みしめながらずっと全天を見回していると東の空高くから非常に薄い緑色の雲が動き始めます。その雲が渦を巻き始め龍のように高く登り始めたので、もしやと設置したカメラのモニターを見ると、鮮やかな緑、青、赤の雲がうごめいているのです。そうです。オーロラです。今度は西の空で渦巻き始めました。そして次は真上で。冬のアラスカのロッジ横の雪原で夜中に一人、空を見上げ宇宙と大自然の営みを体全体で感じる幸福感に浸る時間でした。長時間見上げすぎて首が痛くなるのも忘れて…。

  

 

 オーロラの仕組みは科学的には、太陽から放出されるプラズマ(電気を帯びた粒子)が地球の極地で、酸素や窒素などと衝突して発光する現象となるのでしょうが、夜空を見上げてそれをどう感じるのかは人それぞれです。私も初めて見た時にはカメラのモニター(デジタルには色が鮮明に映し出される)で確証を得た訳ですが、慣れてくれば白い雲を見てもその動きからオーロラと判断できるようになってきます。発光(反応)が強い場合は肉眼で様々な色が見えますが、それが弱いと薄い雲に見えます。古来、北極圏のネイティブの人々やオーストラリア大陸のアボリジナルの人々など大地で暮らす人々は星座や夜空での現象でさえも暮らしに適切に取り入れながら生活していきました。現代社会は光を制御できる時代にはなってきてはいますが、それを含めてもさらに五感を研ぎ澄ませた暮らしをしていきたいと思っています。 

 と偉そうなことを言っておりますが、私は孫の不意打ちの気配は感じ取ることができずにやられっぱなしの爺さんであります。先日の保育園での運動会ではこの一年の成長を感じることができました。保育園では日常的に食事の世話から排泄の習慣まで人として成長する基本的な行動に直接お世話をしていただき、先生方に心より感謝しております。市内幾つかの保育所(園)にはキャリア教育の一環としての「よのなか挑戦」でもお世話になっています。子どもが成長するにつれて解き放ってあげるのが親の役目ではありますが、成長の過程はしっかりと見届け、五感を働かせながら時には軌道修正を確認する役割は祖父としても必要だと感じているところです。

2025.10.15

ホームスクーリング

 以前、厳冬期にアラスカのフェアバンクスを訪れました。その珍道中のお話はまたいつかお知らせしたいと思います。3か所目の宿泊地であるゲストハウスでの最後の夜に、オーナーが自分の友達である日本人妻ヨシさん(仮名)ご夫妻を食事に呼び、私もご一緒させていただきました。というより、私のためにオーナーがヨシさんを呼んでくれたようでした。ご主人はヨシさんのことを「ビッグマム」と呼んでいました。ヨシさんご夫妻には6人のお子さんがおられ、現在上2人が大学生で、すべての子どもさんを高校まで自宅で学習を教えてこられた(残り4人は現在も教え中)そうです。これを「ホームスクール」と呼んでおられました。私はこのホームスクールにとても興味が湧いたので色々尋ねました。「それはなかなか大変ですね」と返すと、「いいえ、大変なことはなかったですねえ。上2人は大学に入ってから今、大量の課題にヒーヒー言っています。」とおっしゃいます。 

ご存じのようにアメリカでの大学進学は(学校にもよりますが)割と容易に入学はできるそうです。ホームスクールでは子ども達に課題を提示してそれをさせているとのことでした。内容について詳しく聞きたかったのですが、酔いが回っていたことに加えて、オーナーやヨシさんのご主人との様々な話にも花が咲いてしまい、詳細を聞き出すところまで辿り着けませんでした。

 私は日本国内におけるホームスクーリングの知識がなかったので調べてみました。日本では学校教育法という法律が厳然とあるのでホームスクーリングは制度としては認められていないようです。全米のある調査機関のデータ(2021)によると、ホームスクーリングで学ぶアメリカの子どもは6.73%で15人に1人という計算になるそうです。ホームスクーリングで育った有名人には、アメリカ合衆国大統領ジョージ・ワシントン、セオドア・ルーズベルト、エイブラハム・リンカーン、また発明家のトーマス・エジソン、アレクサンダー・グラハム・ベル(電話)、科学者ではアインシュタイン、ニュートン、キュリー夫人、実業家のカーネル・サンダース、本田宗一郎と数多くいたことに驚きました。

ここまで聞くと、随分魅力的なホームスクーリングに聞こえますが、やはり長短それぞれあるようです。メリットとしては、子どものペースで学習を進めることができるとか、いじめに遭うことがない、自立心が育ちやすいなどが挙げられます。デメリットして、社会とのつながりが減少しがちになるとか、保護者の学習指導力で差が出やすい、同年代の子どもとの関係性が作れない、進学先の学校の理解が得られにくいなどがあります。

学校に行けない子どもの居場所としてのフリースクールとは違い、学校という枠にとらわれないホームスクールという存在は、今後日本でも広がるのでしょうか。時代の流れに応じて、最近では、教育委員会や学校長の「一定の要件」の判断のもとにホームスクールでの学習を出席とみなすという動きも少しはあるようです。国内でも不登校対策を軸とした「学びの多様化学校」がぽつぽつと設立されてきました。ホームスクーリングはそれを飛び越えて自宅で親が役割を果たすというものですから、選択の幅は一気に広がります。ヨシさんのように6人それぞれを12年間見ていくというのは、やはり「ビッグマム」の仕事ではないかとその時そう感じました。

 一人の人間が自分の人生を歩んでいく際に、どのような学びを選択して(創って)いくか、本人がしっかりと考え意思決定できるような過程、それがまさにキャリアを形づくるということなのではないかとアラスカ以降深く考えるこの頃です。

2025.10.07

中秋の名月

 昨日、教え子から電話がありました。実に十数年ぶりに聞く元気な声でした。何事かと思いましたら、「今度ご飯を一緒に食べて相談に乗ってください。」というものでした。彼は日向を中心に幅広く各所で活躍されているようで大変頼もしく感じました。相談はその活動の中でのアドバイスが欲しいとのことでしたので、近いうちに会おうと話して電話を切りました。

 もう40年も前の教え子が未だに私を頼ってくれるとは本当に有り難いことです。当時はまだ若く未熟な教師であった私ですが、今こうやって話ができるのは、前回のブログにも挙げましたように、日向の地が子どもたちだけでなく私をも育ててくださったからだと心から思います。

 日向市は20分程度で街中どこにでも行くことができ、海山川など自然豊かな丁度よいコンパクトシティだと思います。さらに現在は、子どもたちが夢を描きやすいように街中の大人がよのなか先生になってくださっている素敵な街です。色々課題があってもこれまでも確実に乗り越えてきた街でもあります。私はこの街が好きです。

~眩しく輝く昨夜の名月~

 ところで、昨夜は中秋の名月でしだが、ご覧になりましたか?私は母と縁側で中秋の名月を見た60年ほど前のことを覚えています。自分の子どもには多忙を言い訳にして構えてあげることが出来なかったことを後悔していました。それで孫だけにはと、昨日はススキの穂の代わりに庭の南天の葉を用意し、団子とみかん、柿をお供えしてお月見をしました。孫はパチパチと手を合わせてお月さんにお祈りをしていました。「破壊王が直りますように。」と祈っていたのでしょうか。その祈りの中身は分かりませんが、こういう季節の行事は受け継がれるべきものだと思っています。名月をご覧になれなかった方には今夜が満月なのでお薦めしようと思いましたが今夜は雨の予報が出ています。残念です。季節の行事、次は七五三になりますか。その前に十五夜祭りに五十猛神社大祭など楽しみですね。満月の輝きと懐かしい教えた子たちの笑顔が重なる夜となりました。

 では、くれぐれも台風にお気を付けください。

以前オーストラリアで見た満月~模様がさかさまでした

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