日向市キャリア教育支援センター ブログ

2025.12.24

名君の影響

藩校の話になります。江戸時代の初期、岡山藩主の池田光政が設立した日本初の「庶民のための学校」閑谷学校は有名ですが、わが宮崎県にも日南や都城、延岡などに藩校は設立されています。その中でも高鍋藩明倫堂は、藩士の子のみならず庶民や農民にも学問は必要だと、第7第藩主秋月種茂公の考えが反映され開かれました。種茂公が名君であったことは有名ですし、その弟で山形の米沢藩第9代藩主となったのが上杉鷹山であることはご存じの通りです。「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」が上杉鷹山の言葉ですね。また、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが「日本でいちばん尊敬する人物」としてすぐに鷹山の名前を挙げた逸話もご周知のとおりです。

 

私は山形県米沢市を3年前に訪れました。上杉鷹山の米沢藩はどういう所なのか、今も鷹山公の業績は息づいているのか、そういうことを自分の目で見てみたかったのです。事前情報があまりない中で米沢市に向かいました。私は車で移動していたので、まずは道の駅に向かいます。そこのインフォメーションで土地の情報を仕入れることにしました。案内係の方に土地情報を聞いた後、「上杉鷹山は宮崎から来た人だと知っていますか。」と質問してみました。すると、「はい、高鍋の方ですよね。学校で習いました。」との即答に、私は感動するやら余りの浸透ぶりに驚きました。次に、入手した情報をもとに、まずは上杉神社へ行きました。4月の米沢市は春まだ浅く、駐車場の周辺にはうず高くが積み上げられていました。

上杉神社は、米沢城跡に上杉謙信と上杉鷹山を祭神として作られました。正確には、明治の失火により再建された時に上杉鷹山については、境内の松岬神社に分祀されています。正面から一直線に伸びる境内への参道では、背筋をピンと伸ばしてくれるような神聖な空気を感じました。至る所に上杉家の歴史を語る掲示板があり一つ一つ読み入りました。

上杉神社HPより

続いて、神社のすぐ近くにある米沢市上杉博物館に向かいました。私は観光に訪れると必ずこういう歴史資料館や博物館を訪れます。知らないことだらけで自分の中に新たな知的細胞が誕生するようなそんな感覚が好きです。この博物館は名前のように上杉家がこの米沢の地をどのように反映させたかを知るには十分な資料の展示がなされていました。もちろん、上杉鷹山については深く学ぶことができます。鷹山は幼い頃に母親を亡くし、育ての親が祖母でした。その祖母は米沢藩から秋月家へ嫁入りしていました。秋月家の次男である鷹山は祖母から才覚を見いだされていたので、祖母が養子縁組を米沢藩に取り持ったということになるそうです。当時の米沢藩は極度の財政難に陥り、加えて災害や大飢饉などにより民衆は困窮を極めていました。鷹山は財政改革に乗り出し、自らも粥を食べて倹約しました。これらの業績などを示す展示物に見入りすぎて2時間も博物館に滞在したので、外の明るさに目がくらんでしまいました。

 

さて、米沢見物の話は置きまして高鍋藩の話です。名君秋月種茂や上杉鷹山はご存じでしょうが、高鍋藩が江戸時代に軍馬・農耕馬生産のため、宮崎県串間市の都井岬に馬の飼育を手掛けたということはいかがでしょうか。これも高鍋藩による一つの先見の明ということではないかと思います。現在、半野生化して国の天然記念物に指定されています。

秋月種茂公が高鍋藩主になる以前には、東郷町で悪政に耐えかねた村民が村から脱出する逃散一揆がありました。その際、千名以上の村人が山を越え逃げ及んだのが現在の都農東小学校の西側付近で、高鍋藩の管轄になります。高鍋藩は山陰村民をすぐに追い払うことはせず一月以上保護し、延岡藩と折衝をして、最終的には幕府により村民側に立った采配となりました。その結果、山陰村や坪谷村などは幕府の直轄領すなわち天領となった訳です。その後も山陰村民は高鍋藩に対して恩義を忘れなかったそうです。現在の本町幸福神社内に富高陣屋跡の碑があり、細島に出張陣屋が置かれていたのは天領となった影響によるものです。今の都農町は日向市の隣であり、東郷町は日向市となっているので、史実から読み取れる民衆の闘い名君の英断からは、この日向市一帯に流れる人々の熱い思いを感じ取ることができます。

時は種茂公から200年ほど経った江戸末期、維新に揺れる京都寺田屋事件の後、勤王の志士は徹底弾圧されました。その中で、鹿児島へ護送中に日向灘沖で惨殺された3人のうちの一人が海賀宮門(かいがくもん)という秋月藩士で、この3人の遺体が流れ着いたのが「黒田の家臣」という現地では古島(こしま)と呼ばれている場所です。潮の干満で砂洲を歩けるようになる景勝地なのでご存じの方は多いでしょう。この時の遺体を手厚く葬ったのが黒木庄八という細島の方で、この方のお孫さんにあたる黒木ひでさんは、長年伝承者としてご活躍されていました。ご高齢になられた頃に私は細島小にいまして、何回かひでさんに面会し、お話を聞かせていただいたことがあります。

名君秋月種茂公の秋月藩の意志は、高鍋から時代を経て回り回って日向の地へ関係を繋ぐという人の巡りあわせをも感じさせてくれます。それほどの名君であったからこそ、多くの人そして数々の地に影響を与えているということなのだと理解できます。

 

私の仕事が日向から始まったのにも何かの縁があったのでしょう。長く勤めてきた県北への思い入れには並々ならぬものを持ってきたつもりです。歴史的な意味では神武天皇お船出という時代に始まり、上記のような数々の名君や民衆の思いを背負いながら刻んだ歴史を持つこの日向という町に魅力を感じます。私には名君の英知のかけらもありませんが、市内事業所の皆様のお力とスタッフの知力を借りながら、キャリア教育が、一人一人の本人らしい生き方の実現へ向けて良い影響を与えられるように日向市の児童生徒の支援を行っていきたいと改めて思うところです。

コメント

コメントフォーム

不適切なコメントを防止するため、掲載前に管理者が内容を確認しています。
適切なコメントと判断した場合コメントは直ちに表示されますので、再度コメントを投稿する必要はありません。

お問い合わせ CONTACT

お気軽にお問い合わせください。
0982-57-3522
受付時間 8:30~17:00