日向市キャリア教育支援センター ブログ

2025.11.04

本の話「分人主義」

 昨日11月3日(月)は五十猛神社大祭が催されました。若干の肌寒さはありましたが秋晴れのもと、財光寺地区はお祭り一色になりました。午後のパレードには各地区の仮装隊も登場することはよく知られていますが、午前中はそれぞれの地区を回っていることはご存じでしょうか。高齢者施設や支援施設を含め、地区内にある商店や個人宅の前で踊りを披露しました。午後のパレードは旧道を封鎖し沿道にはたくさんのお客さんが来られ大変な盛り上がりでした。奉賛会や各地区代表の皆さん、ひょっとこ踊りの厄年の方々、警備の方、その他大勢の方々が関わりながら地区の行事が実施されていることを改めて感じる一日となりました。パレードの出発点となっている財光寺南小学校には毎年お世話になっております。皆さん一日お疲れさまでした。

 

 さて、祭りの話が長くなりましたが、本日は読書の秋にちなんで最近読んだ本の中から一冊紹介します。平野啓一郎著『私とは何か』~「個人」から「分人」へ ~ です。この方が言うには、「分人主義とは、…『個人』に対して『分人』とは、対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格のことです。中心に一つだけ『本当の自分』を認めるのではなく、それら複数の人格(分人)すべてを『本当の自分』だと捉える考え方を『分人主義』と定義しています。」だそうです。内容を途中省略しながら少し紹介します。

手紙を届けるのが得意な人がいるから、郵便局が作られたのではなく、手紙のやりとりが必要だから、郵便局が作られ、そこで働く人が求められているのである。そして、職業の多様性は、個性の多様性と比べて遥かに限定的であり、量的にも限界がある。…(略)十年前のあなたと、今のあなたが違うとすれば、それは、つきあう人が変わり、読む本や住む場所が変わり、分人の構成比率が変化したからである。…個性とは、決して生まれつきの、生涯不変のものではない。…(略)私は、小学生のころは何とも思わなかったのに、中学生になると、母親が運動会を見物に来ることが、急にすごくイヤになった。私だけではない。同級生は大体みんなそう言っていた。私は、親と喋っているところを友人に見られるのがイヤだったし、級友と必死で騎馬戦を戦っているところなどを、親に見られるのはもっとイヤだった。私は、それをただ、思春期になって親離れを始めたからだと考えていた。しかし、この問題も、むしろ、分人に着目して考えた方が腑に落ちる気がする。私はやはり、親に対する分人友達同士の分人とが、混ざってしまうことを嫌っていたのだろう。友達向けに目いっぱい分人化しようとしても、どこかで親に見られているという意識が、それを邪魔してしまう。帰宅後、「家では見せないような表情を見た」などと言われたくない気持ちがあった。別段、年頃になって、親を毛嫌いし始めたというわけではなかったのだ。(略)2010年にチリの鉱山で、33人の作業員が坑内に閉じ込められるという落盤事故が起きた。救出までの数カ月間、坑内の作業員は、家族と電話で話せるようになっていたが、そのことが、彼らのストレス軽減に大きく寄与した。これは、閉じ込められた工員仲間との分人だけでなく、家族との分人も生きられるようにするための配慮だった。もしそうした外部との連絡手段が確保されなかったなら、坑内では凄惨な状況が発生していたかもしれない。…(略)人間は、たった一度しかない人生の中で、出来ればいろんな自分を生きたい。

 

「個人」ではなく「分人」。一つの個人という捉え方より、個人はさらに多様な側面を持つ「分人」に分けられるという考え方は面白いと思いました。会社での自分(分人)や家庭での顔、学校での顔、友人間での顔と人それぞれの付き合い方での自分という人格を変化させながら上手く生きるということなのでしょうか。「人間」とは「人」と「人」の「間」を生きる者というどこかで聞いた言葉を思い出しました。興味のある方は秋の夜長に本書を読まれてはいかがでしょうか。それともシングルモルトを片手にマイルス・デイビスに耳を傾ける、そちらもいいですね。

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